家の居間の小さなテーブルにしばらく前から骨壺が置いてある。骨壺の中はかつての愛犬の遺骨である。
もともとペットを飼う趣味はなかった。生き物をおもちゃにするようで感心しなかった。当然ペットは一度も飼ったことがなかった。それがある日ひょんなことから犬を飼うことになった。
その犬は生後1カ月半の牝のゴールデンレトリバーの仔犬だった。名前は何度かの変遷があり、最終的にジョディーあるいはジョリーと呼ぶようになった。家に来たときはとても小さく、ケンタッキーフライドチキンのファミリーパックのような大きさの紙の箱に入ってやって来た。
ジョディーは食欲旺盛でどんどん成長した。朝出掛けるときと夜帰宅したときで大きさが違っているのが分かった。生後7カ月で体重30kgくらいに育った。これでもゴールデンレトリバーとしては小型である。
近所を散歩させているとゴールデンレトリバーは特に子どもに人気があって、「あ、ゴールデンの仔犬だ」「かわいい」「ちょっと触らせてもらっていいですか」などと声がかかった。悪い気はしなかった。同じように犬を散歩させている人たちとも挨拶を交わすようになり、近所に知り合いが増えた。
犬を飼うのは初めてだったので、しつけの仕方が分からなかった。図書館で本を借りて参考にしたりしたが、結局、何とか及第点といえたのは「お手」だけだった。「待て」と「お座り」は半分もしなかったし、「伏せ」にいたってはまるで覚えなかった。これは犬よりも飼い主の問題だろう。
仔犬の頃は居間に置いたゲージに入れ、半年後に居間から見えるベランダに置いたドッグハウスに移した。屋外の生活はとても嫌がった。夏の暑い日は陽のあたるベランダでぐったりしている。雨や雪の日に情けない顔をしてガラス戸越しに室内を見ている姿はさすがに気の毒であった。台風のときなど家の中に入れると尻尾を振って喜んだ。家族の一員のつもりだったのだろう。結局、ベランダ生活は1年間で止め、その後は再び室内で飼うことにした。天気のいい日などベランダで遊ばせようとしても出るのを嫌がった。ベランダ生活の忌まわしい記憶が根強く残っているのだろう。悪いことをしたものだった。家族との添い寝を好み、家の中に大量の抜け毛を撒き散らした。雷を怖がって、赤ん坊のように抱きついた。
仔犬の頃はドッグミルクを与えたが、その後は市販のドッグフードで育てた。ただ、6、7歳頃からお腹をこわすことが増えた。犬は老化が早い。胃腸が弱くなったのだろう。ドッグフードを止めて、1日2回手作りのご飯をあげることにした。鶏胸肉と野菜で作ったスープに残りご飯を入れた雑炊が定番だった。パンや麺類もあげた。これは好物だった。ときどきは馬刺しや牛モモ肉のステーキをふるまった。一心不乱に食べていた。ドッグフードを止めて以降、お腹をこわすことはなくなった。
その後も老化は進み、12歳頃には後ろ脚がだいぶ弱くなった。眼にも白い部分が現れだした。白内障だろう。最晩年はもう眼が見えないようだった。それでも、家の中では排泄をしなかったこともあって、天候に関わらず、朝夕2回の散歩は欠かさなかった。
2015年2月に朝の散歩で突然歩けなくなり、そのときから寝た切りに近い状態になった。それでも食欲はあり、寝たままでの排泄を嫌がっているようだったが、老衰で次第に元気がなくなっていった。亡くなったのはその年の4月末。あまり苦しむこともなく、ある朝、消え入るようにこと切れた。15歳11カ月だった。大型犬としては長命だろう。
ペットの葬儀屋さんに来てもらい、火葬してもらった。人と同じような骨壺に収まって帰って来た。人の場合は四十九日が過ぎたらお墓に入れるのが普通だろうが、犬の場合は選択肢がいろいろある。とりあえず居間の一角の小さなテーブルに骨壺を置くことにした。
それから8年。骨壺は今も同じところにある。友人にこの話をしたら、「うちと同じだ」と苦笑していた。遺骨の扱いについて何も考えないわけではないのだが、しばらくはこのままのような気がする。
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