青幻記

成島東一郎監督・撮影による映画『青幻記 遠い日の母は美しく』(1973年)。青幻記プロダクション制作。沖永良部島を舞台に早くに死別した母と子の情愛を描く。原作は一色次郎の自伝的な同名小説。音楽は武満徹。英題: Seigen-ki / Time within Memory。写真は母さわ(賀来敦子)。
『青幻記』(1973年)

昭和初期。沖永良部島の伊延海岸に鹿児島港からの汽船が到着する。客は2艘のくり舟で下船する。
『青幻記』(1973年)

そのなかに小学校2年の大山稔(新井庸弘、左)と母さわ(賀来敦子、右)がいた。二人は着の身着のままだった。さわは沖永良部島生まれで、このとき30歳。結婚して本土で暮らしていたが、夫を結核で亡くし、自分も結核に感染していた。さわは一人息子の稔を連れ、実家を頼って、沖永良部島に戻って来たのだった。半年後、さわは亡くなり、稔は再び本土に戻ることになる。
『青幻記』(1973年)

それから、36年後。成人した稔(田村高廣)が同じ沖永良部島の伊延海岸に着く。稔が島を訪れるのは母が亡くなった後に島を離れてから初めてだった。
『青幻記』(1973年)

この作品では、36年前に稔と母さわが島に戻るまでの複雑で過酷な経緯、沖永良部島での稔と母さわとの半年間の生活、36年後に再び島に戻って来た稔の行動や回想などが行きつ戻りつしながら描かれる(原作もそうなっている)。ただ、これ以降の写真は時間順に並べ直してある。

鹿児島港から沖永良部島に向かう汽船に乗船する前に久しぶりに対面する母子。このとき、母は一人で島に戻ることになっていたが、稔はそのまま母と船に乗ってしまう。写真奥は母と懇意のとく(三戸部スエ)。
『青幻記』(1973年)

汽船は風の影響で本来の寄港地の和泊港から離れた伊延海岸に着く。さわは人目を避けるようにして5時間かけて実家に向かう。
『青幻記』(1973年)

実家には祖母(原泉、右)が一人暮らしていた。祖母は娘のやつれた姿に驚き、事情を察する。この頃、島を離れた人間が戻ってくるときには、結核を患って余命幾ばくもないことが多かった。
『青幻記』(1973年)

祖母(奥)は二人のために粟飯を炊く。さわ(手前)は稔(右)に「金のご飯よ」「たくさん食べなさい」と話す。沖永良部島では誰に対しても丁寧で優しい話し方をする。
『青幻記』(1973年)

稔(手前)、母(奥)、祖母の3人の生活が始まる。さわは実家に戻り、少し元気をとり戻す。
『青幻記』(1973年)

稔(中央)は島の小学校に通い、友達もできる。
『青幻記』(1973年)

さわは踊りの名手だった。その年の旧暦9月15日の十五夜、島人に請われて、「上り口説」を踊る。このときのさわの踊りは島人に深い印象を残した。
『青幻記』(1973年)

稔とさわはサンゴ礁に魚を採りに行く。
『青幻記』(1973年)

さわが亡くなる。幼い稔は母が亡くなったという実感がない。
『青幻記』(1973年)

さわが亡くなって1週間後、霊媒師のユタ(浜村純、中央)がさわの霊を呼び寄せる。稔はさわの声を聞く。その後、稔は島を離れる。それはさわが望んだことだった。
『青幻記』(1973年)

36年後、成人して島に帰って来た稔はさわの実家のあった場所を訪ねる。辺りは一面樹木に覆われていた。
『青幻記』(1973年)

稔(左)は鶴禎(かくてい)老人(藤原釜足、右端)とその姉(田中筆子、右から2人目)に出会う。二人はさわやその一家、そして稔のことをよく知っていた。
『青幻記』(1973年)

稔(奥)はさわと祖父母の眠る墓にお参りする。墓は鶴禎老人(左)が守ってくれていた。島で暮らした当時の友人の三昌秀次(戸浦六宏、右)も付き添う。
『青幻記』(1973年)

稔は遺骨を抱いて本土に帰る。
『青幻記』(1973年)

原作にかなり忠実に脚色された作品。撮影監督も務めた成島東一郎による映像が(これは原作よりも)美しい。武満徹もこの作品の叙情性に寄り添うような音楽をつけている。写真は沖永良部島の海。
『青幻記』(1973年)

原作者の一色次郎は沖永良部島出身。原作となった『青幻記』(1967年)で第3回太宰治賞を受賞した。この作品には一色自身の体験が色濃く投影されており、(映画以上に)胸に迫るものがある。彼は太宰治賞の賞金と映画化の原作料で高尾霊園に母親と先祖の墓を建てている。


seigen-ki/time within memory (1973) engsub - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=txyUM7t9W-M
全編。英語字幕付き。ただし、島言葉は訳されていない。

一色次郎著『青幻記』(けいせい、1970年)
一色次郎著『青幻記』(けいせい、1970年)

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