肩引きは、人と人が人混みですれ違うとき、お互いに肩を引いて相手に配慮する、日本古来のマナーだ。だが、近頃の東京では人に譲ることを忌み嫌って、人混みでむしろ肩を入れるようなしぐさをする人が増えた。駅の構内など意地でも他人には譲らないという人が目につくし、他人に意図的にぶつかるラグビー選手のような若者もある。スーパーマーケットの店内ではショッピングカートを砕氷船のように操るご婦人がいる。急ぐ人が増えたから、周囲への配慮が後回しになるのか。しかし、急いでいるのはマナーの悪い人たちだけではない。こうした公衆道徳の劣化はどのような理由で発生したのだろうか。しばらく前から疑問に思っている。
最初は礼儀を知らない若者だけかと思っていた。しかし、老人にも多い。歩道を自転車のベルをかき鳴らしながら、わが物顔で走る御仁はむしろ老人に多い。上の世代が子どもの育て方を間違えたということだけではなさそうだ。
耳にイヤホンを差し込んで街中を歩く人間が増えたからか。これもありそうだが、イヤホンをしてもマナーに問題のない人はいるし、イヤホンをしていない無作法者も多い。
都会を離れて地方に行くと、街中で礼儀をわきまえない人を見ることは少なくなる。都会は核家族化が進んで、子どもの頃の躾が行き届いていないからなのか。あるいは都会は競争が激しいから、他人に対して攻撃的になるのか。しかし、例えば、ニューヨークでは人混みで他人と身体が触れ合うことを嫌うから、雑踏や地下鉄の車内で人は避け合う(譲り合っているわけではないかもしれないが)。世界中の都会で同じ現象が見られるわけではなさそうだ。
東京の雑踏では、面識のない人に対してよりも、面識のある者同士のほうが節度があるようなふしがある。自分の同行者を押し退けたりしたら、後々までややこしい。親しき仲のみ礼儀ありという行動様式も当然あるだろう。都会の街中は周囲に知り合いのいる確率が地方に比べて微少だ。マナーの低下を説明する一つのヒントのような気がする。
吉本隆明『真贋』(2007年、講談社)は晩年の吉本の談話をまとめた本だが、そのなかに「戦争のような大きな悪の中では、個人個人は倫理的で善良になり、平和の中では個人個人が凶悪になっていくという矛盾があります」という一節がある。これもヒントになりそうだ。しかし、本当にそうだろうか。
何年か前、2、3週間ほど右手を三角巾で吊って歩いた。そのときは、重度のスマホ愛好家を除いて、多くの方が道を譲ってくださった。むしろ、自分の日頃の態度に問題があるのだろうか。疑問はさらに深まる。
かくして、今日も東京の人混みのなかを首を傾げながら歩く。
渓斎英泉『日本橋の晴嵐』(19世紀中頃、メトロポリタン美術館蔵)
Keisai Eisen | Evening Glow at Nihonbashi | Japan | Edo period (1615–1868) | The Metropolitan Museum of Art
『真贋』(講談社インターナショナル、 2007年)。後に文庫版(講談社文庫、2011年)が刊行された。
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