柳家小三治と小栗康平

先月終わったNHKの連続テレビ小説『ちむどんどん』の評判が散々らしい。私も不出来だったと思う。最大の要因は企画と脚本だろうが、役者の演技も気になった。若手を中心に、とにかく声高にセリフをしゃべり(例えば、泣いたり、叫んだり、喚いたり、怒鳴ったり)、表情や動きも大げさな出演者が目立つのだ。

これは『ちむどんどん』に限らず、最近の連続テレビ小説の傾向だろう。朝のNHK BSだと過去の連続テレビ小説の再放送の後に放送されるから、続けて見るとその違いが際立つ。朝っぱらから無用の大騒ぎはすべての視聴者の好むところではない。

先年亡くなった落語家の柳家小三治が高座を収録した『令和の小三治 1』(ソニー・ミュージックダイレクト、2020年)の『プロデューサーとの公開対談』(「朝日名人会」2020年10月3日)の中で、「私が古くなったんですかねえ」といいながら、次のようなことを話している。

大きな声じゃいえないが、今の人は芸が分かっていない。この頃、芸が多弁になっている。装飾をつけたり、ああだこうだと特徴をつけるのをよしとする。こんな特徴、あんな特徴、全部そういうことでいっている。評論家や批評家もそういうことばっかりいう。そうしなくていいんです。芸は棒読みでいい。余計なことはいらない。噺の先に何が見えてくるか、この噺は何をいおうとしているか、その一番肝心なところが分かっていない。

映画監督の小栗康平は評論集『じっとしている唄』(白水社、2015年)に収められた「誠実にたたずむ-田村高廣さん」(『産経新聞』2006年5月25日)で彼を追悼して、「斜めになったり、過剰な自己顕示に芝居の根拠を求める役者が多いなかで、高廣さんはきわめて稀な俳優だった」と述べている。根底にあるのは小三治と同じ認識だと思うが、映画監督がいうからには演出だけの問題ではないのだろう。

小栗康平は同じ本の「見えない場」(『ツインアーチ』2010年3月号)でも岸部一徳を引き合いに、「手が届かないことの残し方、放棄の仕方をわからないままに、オレがオレがと言う役者が多いのである。岸部一徳は欲がないのではなく、できる、できないことをよく知っているのだ」と書いている。

二人の意見にはとても共感する。私も古くなったのだろうか。


令和の小三治1「朝日名人会」ライヴシリーズ137・柳家 小三治 | Sony Music Shop
令和の小三治1

じっとしている唄 - 白水社
じっとしている唄


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