第五福竜丸

新藤兼人監督による日本映画『第五福竜丸』(1959年)。近代映画協会・新世紀映画製作。昭和29年(1954年)に米国がビキニ環礁で行った水爆実験で被曝した第五福竜丸の船員たちを描いたドキュメンタリータッチの作品。音楽は林光。英題: Lucky Dragon No.5。写真は第五福竜丸に降り注ぐ大量の死の灰。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

昭和29年(1954年)1月22日。マグロ漁船の第五福竜丸は23人の船員を乗せ、南太平での遠洋漁業に出港する。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

船員たちの家族が第五福竜丸を見送る。中央は久保山愛吉の妻しず(乙羽信子)と娘たち。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

第五福竜丸の無線長、久保山愛吉(宇野重吉)。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

この航海ではサメばかり獲れた。そのため、第五福竜丸はマグロを求めて、いつもの漁場とは異なるビキニ環礁方面に接近する。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

3月1日未明、ビキニ環礁付近を航行中の第五福竜丸の船員たちは巨大な閃光とキノコ雲を目撃する。続いて、猛烈な爆音と爆風が船を襲う。船員たちはピカドン(原爆)ではないかと思い始める。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

船員たちはまだ知らなかったが、これは米国が実施した水爆実験だった。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

第五福竜丸はこの海域からの離脱を図る。しかし、延縄の収容など撤収作業に時間がかかった。ほどなく上空から雪のような灰が大量に落ちてくる。船員たちはこの灰を浴びる。第五福竜丸は米国側に傍聴されて厄介なことになるのを危惧し、焼津への無線連絡は行わなかった。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

3月14日、第五福竜丸は焼津港に帰港する。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

第五福竜丸の船員たちの顔は炎症によって真っ黒に焼けていた。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

船員たちはすぐに焼津の病院で検査を受ける。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

船員たちは放射線症であることが判明する。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

米国から調査委員会が来日する。彼らは船員たちの診察を求めるが、水爆実験については口を濁す。謝罪もない。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

船員たちは治療のために東京の2つの病院に移される。医師や科学者が総力を挙げて治療に取り組む。船員たちは次第に快方に向かう。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

しかし、年配の久保山愛吉無船長は病状が悪化していく。被曝から半年後、久保山は皆に見守られながら息を引き取る。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

日本中が久保山の死を悼む。写真は久保山の遺骨を乗せた列車を途中駅のホームで出迎える人たち。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

焼津での葬儀には多くの弔問客が訪れた。
新藤兼人監督『第五福竜丸』(1959年)

Wikipediaの「第五福竜丸」の項目によると、久保山の死因は当初放射線症とされたが、当時の医療データを後年再分析した際には死因は輸血によって感染したC型肝炎(当時はまだ発見されていなかった)と結論付けられているそうだ。


Daigo Fukuryu Maru Kaneto Shindô [1959] (Lucky Dragon No.5) - YouTube
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Lucky Dragon No. 5 (1959) : Kaneto Shindo : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive
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