根本通明は幕末から明治期の儒学者、漢学者。文政5年(1822年)に久保田藩(秋田藩)に生まれ、久保田藩の藩儒、東京帝国大学教授などを歴任、明治39年(1906年)に亡くなった。
根本通明は幼少の頃、文机に穴を穿ち、そこに短刀を刃先が上になるように差し込んで、勉学に励んだそうだ。
根本通明(撮影時期不詳)
ラファエル・フォン・ケーベル著、久保勉訳編『ケーベル博士随筆集』(岩波文庫、1928年)のなかの「私の見た日本」に東京帝国大学教授としての根本通明の印象が記されている。ケーベルは明治26年(1893年)から20年余り東京帝国大学で哲学、西洋古典学を講じた。
「少し古い時代の日本人、とくにその時代の学者や、教育家やまた教授たち(私の就職の初年に親しく相識るの機会をえたところの)単純な、謙虚な、落著きのある、物静かな、思慮ある、高貴な性質」をもつ同僚として、
「浜尾男、次には根本教授と、非常に親みのある一紳士」の三人を挙げ、根本通明については、
「高齢の根本氏は常に黒い色の、短い、しかし非常に重い鉄の笏を携えていたが、その用途は私にはついに一つの謎として残った。彼を見るごとに、私はアラビアの童話によく出てくる魔術師を想起することを禁じえなかった」と書いている。
森鷗外著『小倉日記』(明治32年6月16日~同35年3月28日)の冒頭にも根本通明の名前が見える。当時、根本通明は森鷗外の隣人であった。
「明治三十二年六月十六日午後六時新橋を発す。根本通明氏餞するに藤四郎吉光の短刀を以てす」。
根本通明が乃木希典に短刀を贈ったという話しも何かで読んだ記憶がある。
File:Michiaki Nemoto, Professor of Chinese Classics & Chinese Language.jpg - Wikimedia Commons
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