赤い汽罐車庫

画家の長谷川利行の描いた『赤い汽罐車庫』。長谷川利行は1891年に京都市に生まれた。父は警察官(後に伏見警察署長)、祖父は紀南地方で知られた俳諧師だった。1921年に上京し、1940年に没した。初め文学を志し、後に独学で絵を学ぶ。

浅草近辺の貧民街で酒浸りの日々を送り、わずかな代金で作品を売り渡した。晩年の1940年には「身体の衰弱甚し。屢々貧血して卒倒しまた血を吐く。しかも連日飢ゑて巷をさまよう」(矢野文夫)という困窮ぶりであった。当時は三河島の救世軍宿泊所に住み、その後路上で行き倒れ、東京市立板橋養育院に収容される。末期の胃癌の治療を拒否して、同年10月に亡くなった。友人知己がその死を知ったの翌年1月のことだった。

長谷川利行の色彩感覚には妖しい美しさがある。文人画家であることや同じモチーフを繰り返し描いているのも興味深い。

長谷川利行『赤い汽罐車庫』(1928年、油彩、鉄道博物館蔵)
長谷川利行 - 赤い汽罐車庫

画家の熊谷守一は長谷川利行と交遊があった。熊谷が1971年6月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」から少し引用すると、「長谷川利行とは、ひんぱんに付き合いました。これはよく知られているように大変な変わり者で、私の家に遊びに来ていたころもひどく貧乏なうえにめちゃくちゃなことばかりやっていました」「彼は家もありません」「酒が好きで酔うと同じことばかり繰り返す」「金がなくなると、たばこのバットの箱に絵をかいてそれを飲み代がわりにする」「酒がはいっていないときは、人みしりして恥ずかしがり屋で、なにかというとすぐ顔を赤くするのです」。

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