矢内原伊作『ジャコメッティとともに』(筑摩書房、1969年)は幻の名著といわれて久しい。矢内原伊作がアルベルト・ジャコメッティのために長期間に渡ってモデルを務めたときの貴重な記録だ。それが復刊されない理由は、独断でいわせてもらえば、矢内原とジャコメッティの妻のアネットとの男女関係に関する記述が含まれるからだろう。例えば、
ぼくら(矢内原、ジャコメッティ、アネットの三人)はモンパルナスに出、ジャコメッティは手紙を書くために路地に姿を消した。これまでの習慣では、アネットは帰り、ぼくは一人でしばらく散歩してからホテルに帰って寝るのが常だったが、その夜はアネットは帰ろうとしなかった。「あなたの部屋に行く」と言う。ぼくはホテルのベルをおし、深夜の玄関番の爺さんにいつもの三倍ほどのチップを握らせ、足音を忍ばせて部屋に入った。
六階だというのに、深海の底のような感じのする暗い殺風景な部屋。ぼくは疲れて、そのまま寝台の上に横になっていた。アネットは物珍しそうに部屋のあちこちを見まわし、窓から外をのぞいたりしていたが、そのうちに洋服をぬぎはじめ、たちまちのうちに身につけていたものをぬぎすてて、僕の寝台にもぐりこんでしまった。
(略)
一時間あまりしてから、「アルベルトが心配するといけないから」そう言って彼女はまたそそくさと洋服を着た。外套を着てしまってから、靴下とブラジャーをまるめて外套のポケットにつっこみながら、「帰ったらすぐにアルベルトにこれを見せなくちゃ」と悪戯っぽく笑う。彼女は自分が見聞したり経験したりしたことは、どんなことでもアルベルトに詳しく話さずにはいられないのだ。
(略)
ぼくは近くのバーでウィスキーを飲み、この思いがけない事態について考えてみようとした。ジャコメッティがどう思うか、そのことが何よりも気がかりだった。
アネットも矢内原もこの出来事をジャコメッティに打ち明ける。
「それで、あなたはぼくに対して怒ってはいないんでしょうね。」
「私がきみに対して怒る?」とんでもないというという顔をして彼は言う。「きみが何をしようとも、私がきみに対して怒るなどということはあり得ないだろう。反対に、アネットが君のところに行ったのは極めて自然であり、当然のことだ。私はそのことを大変よろこんでいる。」
(引用はここまで。)
こうした内容は単なる不倫話に留まるものではないと思う。芸術作品はただそれだけを鑑賞すればよい、作者の人間性を知る必要はないという考え方は理解できる。ただ、ジャコメッティは芸術家としてだけではなく、一人の人間としても非常に興味深い。事情はあるのだろうが、是非オリジナルな形で再び世に出してほしい。
アルベルト・ジャコメッティ『イサク・ヤナイハラ』(1956年、油彩、シカゴ美術館蔵)
矢内原伊作 - Wikipedia
『ジャコメッティとともに』(筑摩書房、1969年)。
Isaku Yanaihara | The Art Institute of Chicago
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