東京の多摩地区にある多磨霊園や小平霊園をときどき散策する。広大な敷地は車の通行が少なく、のんびり歩くのによい。歴史上の人物の墓も数多く、飽きることがない。
著名人が小さな墓に収まっているのは奥ゆかしく、大きな墓が夏草に埋もれているのはいかにも侘しい。いつも感心するのは小平霊園にある伊藤整の墓だ。区画が割り当てられた一般墓地ではなく比較的簡素な芝生墓地にひっそりと佇む。高名な文学者の墓とは思えぬ慎ましさに整の人柄が偲ばれる。墓前に洒落た花束が手向けられているのを何度か見かけた。よく墓参りに来る人があるのだろう。
別の日には少し枯れた花束があった。
息子の伊藤礼は洒脱なエッセイを著し、高齢の自転車愛好家としても知られる。『こぐこぐ自転車』(平凡社、2005年)などを読むと、杉並区の久我山に家があるにもかかわらず、東村山市の久米川駅前の自転車屋を贔屓にしている。なぜわざわざ遠く離れた店なのか不思議だったが、久米川駅が小平霊園の最寄りであることを考えると、父親の墓参りのときに店に立ち寄っているのかとも思われる。もしそうなら、模範的な孝行息子なのだが、本当のところは話の順序が反対のような気もする。
山口県萩市にある吉田松陰の墓も小さく清々しい。周辺には一族の墓も多数あり、松陰よりも大きな墓は見当たない。松陰の墓を大きく建て替えることをせず、自分たちの墓を小さく抑えることで、松陰に対する尊敬の念を保っているのだろう。
多磨霊園にある狩野亨吉の墓も好きだ。狩野亨吉は幕末に生まれた哲学者で、埋もれていた思想家の安藤昌益を見出したことで知られる。若くして学識絶倫を謳われ、第一高等学校の校長や京都帝国大学文科大学の初代学長を務めた後、40歳代初めに公職を辞し、その後は東京の下町の長屋に出戻りの次姉久子と二人で住み、書画骨董の鑑定で生涯倹しく暮らした。その傍ら、浮世絵や春画の蒐集に励み、1942年に亡くなった後、遺品から自作のポルノグラフィが大量に見つかったという。いわば奇人変人の類に近い人である。
狩野家の墓所には小さな区画に小振りの墓がいくつか並んでいる。正面の一番大きな墓が亨吉の父で漢学者の狩野良知のもの、その左手が亨吉の墓である。その他の墓も良知を取り囲むように配置され、茶の間に父を中心に家族が居並ぶ団欒の光景が目に浮かぶ。
狩野亨吉の墓。
青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』(明治書院、1974年)によると、亨吉の墓は1958年に有志の募金で建てられた。不足分は岩波書店が負担したというから、亨吉に心酔していた教え子の岩波茂雄の創業した岩波書店、というか茂雄の女婿で当時岩波書店の支配人だった小林勇が旗振り役を務めたのだろう。小林勇は亨吉をモデルに『隠者の焔』(文藝春秋、1971年)という小説も書いている。墓碑建設の記念晩餐会ではこれも亨吉の教え子の福井利吉郎が『狩野先生の性欲』という驚くべき演題の講話を行った。亨吉は夏目漱石の葬儀で友人代表として弔辞を読み、東北帝国大学の総長や当時の皇太子(後の昭和天皇)の教育掛に推されたが固辞したという。多くの知友や門弟に慕われた希代の教育者なのか、常軌を逸した変態爺さんなのか。謎の多い人物だ。
青江舜二郎 - Wikipedia
『狩野亨吉の生涯』(明治書院、1974年)はその後、中公文庫(1987年)で出た。ただ、中公文庫版では原著巻末の「亨吉と性」の章は除外されている。写真は中公文庫版。
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